尾懸 貢・陸連専務理事の新聞掲載記事に対する反論


東京大学大学院 工学系研究科  
池上 孝則     

1.はじめに
    2016年5月2日(月)の毎日新聞夕刊に、マラソン代表選考を複数大会から選ぶことの必要性と、選考に際しての「プロの目」の重要性を説く「マラソン選考に思う」、「プロの目で見極め」と題する尾懸貢・日本陸連専務理事寄稿の記事が掲載された【甲第81号証】
    当該記事は、北京世界陸上2015の代表選考に関して私を含めた多くの人が指摘した疑義に対する反論という目的をもって掲載されたものと思われる【甲第82号証】【甲第83号証】。当該記事に明記された内容は「公平性・透明性を欠く」との従来の代表選考の批判を無視することを宣言し、陸連の主観に基づく選考の方向性を改めて明示したものである。
    しかしこうした考え方は今後の代表選考においても従前と同様の混乱の歴史が繰り返されること意味しているものであり、断じて看過することはできない。そこで、「プロの目」と「科学の目」という論点を基軸とした当該記事に対する反論を行うこととした。

2.レース条件が演出する競争競技の記録
    競争競技の記録およびそれに付随する選手の評価はレース条件が大きな鍵を握っている。先ごろ終了した日本陸上競技選手権(以下「日本選手権2016」という)を例に、まずこの問題に言及しておく。
 
(1)日本選手権2016
    2016年6月24、25、26日の3日間、日本陸上競技選手権大会が愛知県名古屋市のパロマ瑞穂スタジアムで開催され、連日、大勢の入場者(第1日目:14,500人、第2日目:24.800人、第3日目:18,500人、大会合計:59,800人)が選手に熱い声援を送った。
    この大会はリオ五輪の日本代表選手選考競技会であることに加え、今回は100回という記念すべき節目の大会であることから、陸上界に貢献した多くの選手が集う記念セレモニー等も開催され、大会は大いに盛り上がった。
    今大会では、短距離種目では日本人初の9秒台突入が期待される男子100mの3選手(桐生祥秀選手、山縣亮太選手、ケンブリッジ飛鳥選手)、今期に入って破竹の勢いを見せる400m野澤啓佑選手、長距離種目ではナイキ・オレゴン・プロジェクトでトップアスリートと練習を重ねてきた大迫傑選手、14年振りに日本記録を更新した村山紘太選手、強さと安定感を増した地元出身の鈴木亜由子選手、フィールド競技では世界に手が届く位置にある男子やり投げの新井涼平選手、日本選手権を20連覇(1995-2014年)し、2年振りの大会出場するパンマー投げ室伏広治選手などが注目を集めた。
 
(2)男子100m決勝および男女200m決勝
    注目の男子100m決勝は、雨が降り続く大会中日の6月25日(土)の20時35分に実施され、ケンブリッジ飛鳥選手が山縣亮太選手を0.01秒差で抑えて10秒16で優勝した。10秒01の日本歴代2位の記録を持つ桐生祥秀選手は10秒31の3位だった。このレースは降り続く雨の中で実施されており、しかも向かい風0.3mと、短距離走のレースコンディションとしては決して恵まれた条件ではなかった。
    一方、女子200m決勝は100m決勝の翌日の6月26日の17:30に実施され、福島千里選手が自己の持つ日本記録を0秒01更新する22秒88で優勝した。女子に引き続いて行われた男子200mでも飯塚翔太選手が日本歴代2位の20秒11の好記録で優勝している。男女200m決勝ではともにホームストレートで1.8mの追い風が吹いており、決勝に出場した選手の全てが第4コーナーを回るとこの追い風を背に受けて記録を伸ばしている。
 
(3)風の影響を考慮した記録の評価
    日本陸連は、第97回 日本選手権(2013年)において「男子/100m/風速が記録に及ぼす影響」と題する、平地で無風の条件下で10秒00で走った場合の影響を算出する資料を出している【甲第84号証】
    この資料によれば、追い風1.8mの場合のプラスの効果は0.147秒となっている。したがって、100mと200mという違いはあるが、男女200mの決勝に出場した選手は推定で0.15秒以上のアドバンテージがあったと思われる。それゆえ、もし男女200mが無風の状態で実施されていたなら福島選手の日本記録更新はあり得ないし、飯塚選手の歴代2位の記録もなかったであろう。
    一方の男子100m決勝における風の影響であるが、先ほどの日本陸連のデータによると、風速0.3mの向かい風による記録のディスアドバンテージは0.027秒となっている。したがって、男子の100m決勝が男女200m決勝の条件と同じ追い風1.8mで実施されたとすると、両者の条件の違いに伴う記録の差分Δtは
         Δt=(0.147+0.027)×10.16/10.00≒0.1768
となるから、推定フィニッシュタイムは10.16-0.1768=9.9832となる。つまり、公式記録で9秒99が出ていた蓋然性が高い。
    加えて、25日は雨天であったことのマイナスを考慮すると、更に0.0032秒以上の記録の短縮が見込めるので、公式記録は9秒98になったと予想される。
    伊藤浩司選手が1998年にバンコクで開催されたアジア大会の準決勝でマークした記録男子100mの日本記録10秒00も追い風1.9mの条件下で樹立された記録であるが、それから18年近くが経過した。今日においては、100m/10秒は日本選手に立ちはだかる大きな壁となっている。
    もし日本選手権2016の決勝という大舞台で9秒台の公認記録が出たということになれば、大変な騒ぎが巻き起こっていたことであろう。メディアはこぞってこの事件をセンセーショナルに報道したであろうし、号外も出たであろう。そしてもちろん、9秒台を記録した選手は日本の陸上史に長くその名を刻むことになったことあろう。
    競争競技の記録はレース条件という上げ底・下げ底の上で変動する偶然性の高い値である。したがって我々は、記録におけるこうした相対性を常に意識しつつ、科学的な目で記録及び選手を評価する必要がある。

3.「プロの目」と「科学の目」
    前述の新聞記事で尾懸氏は、「強い選手を選ぶ為には複数の要素を総合的に勘案する”プロの目”が必要である」と主張している。ここでは、「プロの目」と「科学の目」という切り口で氏の主張の本質に迫ることにする。
 
(1)「プロの目」に潜む病理
    相撲の行司、野球の審判、テニスのアンパイアなどのように、スポーツの判定は専ら専門性を有する「プロ」が担っているが、その判定には常にトラブルがつきまとう。いったい「プロの目」には如何なる病理が巣食っているのだろうか。
 ◆病理Ⅰ:人間の生理的限界
    人間の反射速度は0.1秒を超えられないといわれており、ゆえに陸上短距離でリアクションタイムが0.1秒未満の選手はフライングと判定される。また、動体視力(動きながら見るときや動いているものを見るときの視力)は静止視力(静止した状態で静止した対象を見るときの資力)に比べて低下する。つまり、人間の能力の生理的限界により、状況が難しくなるほど人間の判断の精度は下がってゆく。難しい局面で「プロの目」が判断を下すということは、丁半博打に運命を委ねるということでもある。
 ◆病理Ⅱ:人間関係の距離差
    人間の判断にはどうしても情が絡むため、人間関係の距離により判断に公平性を欠く蓋然性が高い。こうした人間関係の距離差に起因する不公平性の問題に対しては、サッカーなどの国際競技では審判団は中立国で構成するし、スキージャンプなどの採点競技では最高点と最低点を採点の対象から除外するなどの対策を講じることにより、公平性の向上に配慮している。
    しかしマラソン代表選考の場合には、代表候補を抱える実業団の監督が理事となるなど選ぶ者と選ばれる者との距離に大きな差があり、パフォーマンスの評価やその延長線上にある代表選考において公平性を欠く判断が発生しやすい状況が存在している。
    リオ五輪マラソン代表選考要領では「各選考競技会での記録、順位、レース展開、タイム差、気象条件等を総合的に勘案し、本大会で活躍が期待されると評価された競技者。」と規定している【甲第85号証】。しかし、複数の要素を総合的に判断する場合に各要素の重みづけに人間関係の距離の違いによる恣意的な差が生じるのは当然の成り行きであり、その結果として不公平な選考は不可避的に発生することとなる。リオ五輪で揺れる ドーピング問題と同様、フェアプレイの精神を蝕む病魔は徹底的に退治しておく必要がある。
 
(2)「プロの目」から「科学の目」への潮流
    「プロの目」による判断に起因する諸々の病理を踏まえ、多くの競技で「科学の目」を活用して公平性を担保しようとする大きな流れが形成されつつある。
    例えば、陸上日本選手権でも昭和39年から写真判定が採用されており、日本陸上競技連盟規則(2011年3月修改正)の第165条の写真判定(電気計時)に「13. 連盟が主催、共催する競技会、および本連盟が特に規定する競技会では、必ず写真判定システムを使用しなければならない。」との規定が設けられている
    野球では、メジャーリーグベースボール(MLB)でビデオ判定が2008年から導入され、2014年からはチャレンジ方式が採用されている。日本野球機構(NPB)も2010年のシーズンから「フェンス際の打球のホームランか否かの判定」にビデオ判定を正式に導入しており、2016年からは「本塁上でのクロスプレー」に関しても適用している。
    テニスでも、ライン際のイン・アウトの微妙な判定に対して1セットにつき3回(ビデオ判定の結果誤審であった場合は要求権の回数は保持される)までビデオ判定を要求(チャレンジ)する権利を選手に与えている。
    このように、多くのスポーツで人間の判断を補助するシステムが普及し、また検討されている。もちろんビデオ判定等の科学の目による判定は試合の流れを止めるなど幾つかの問題点は存在するが、判定の公平性を担保するという目的を実現する上で有効に機能する唯一とも言えるアイテムであることから、判断を「科学の目」に委ねるという動きは逆らい難い潮流と言えるだろう。
 
(3)「プロの目」に拘泥する陸連の非科学的体質
    このような「科学の目」を積極的に取り入れようとする世界的潮流に抗し、陸連は何故か古典的な方法論に拘泥している。尾懸氏の「プロの目」の主張や酒井勝充・陸連強化副委員長の北京世界陸上2015の代表選考における「我々もプロとしてやっている」という発言には、選考の要素から科学データの介入を積極的に排除しようとする陸連の非科学的体質が見え隠れしている。
    例えば陸連は、今までのマラソン代表選考において選考の根拠となる科学的データを、一切、公表してこなかった。私はパフォーマンスの評価指標として約140万人分の「フェアタイム」をWebサイト「ハートフルランナーズ」で公開し、それらの信頼性を約1兆に及ぶフェアタイムの相互比較に基づいて検証している。陸連が選考に関して科学的データを提示しないことに関して考えられるその理由は二つ。一つは「陸連のデータ解析能力の脆弱性を隠蔽するため」であり、今一つは「選考後に選考の根拠となるデータの反例を挙げて反論される事態を回避するため」である。
    しつこいようだが、公平性を担保しつつ異なる条件下の記録を比較する手段は科学しかない。公平性が命であるスポーツの世界で生きる者は、科学的手段を駆使して判断の信頼性を可能な限り向上させる姿勢が求められるのである。尾懸氏が研究者として限界を感じることは勝手だが、それを「プロの目」という荒唐無稽の権威にすり替えて物事を動かそうとするやり口は「神は偉大なり!」と叫んでテロをも正当化する輩に通じる無謀さがある。
    明治憲法は、[大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス」(1条)、そして「天皇ハ国ノ元首にして統治権ヲ統攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)と定めて天皇に主権が存することを謳い、その地位の根拠は天照大神の意志、すなわち「神勅」に求めていた。陸連は「プロの目」による判断を正当化する根拠を如何なる神の意志に求めようというのであろうか。

 
(4)陸連理事は「ボランティア」
    今まで「プロの目」と「科学の目」という切り口で先の新聞記事に関する議論を展開してきたが、実はこの話には”落ち”がある。陸連の理事は「プロ」ではないのである。
    陸連の「役員の定年制度および報酬に関する規則」の第3条(役員の報酬)には「役員は無給とし、退職金は支給されない。」と記載されている【甲第86号証】。「プロフェッショナル」の本来の意味は「職業上の」であるから、一般的には「プロ」とはその分野で生計を立てている人を指す。したがって、陸連の事務職の皆さんはプロであっても、陸連理事はその仕事で生計を立てていない以上、プロではない。尾縣氏は「プロだプロだ」と声高に叫んでおられるが、実は陸連の理事は単なる「ボランティア」なのである。
    その証拠に、彼らが理事である間に何らかの事件が発生したとしても、「業務上過失」を問われることはまずないであろう。こうした責任の軽さ、ボランティアとしての甘えが積年の課題の先送りを続け、改革の声に背を向けていた本当の理由である。
    陸連に自浄作用も問題解決能力もないことは今回の記事でも再確認できるが、取り組めばすぐにでも解決するマラソン代表選考の問題が長く未解決のまま放置されているのは、陸連にこうした構造的な問題が存在するからである。

4.陸連の権利侵害と選手の救済手段
    ここでは、陸連の権利侵害と選手の救済手段という視点から代表選考の問題を考えてみることにする。
 
(1)陸連と選手のパワーバランスの不均衡
    陸連の権利侵害に対する対抗手段、すなわちスポーツ選手の権利救済手段として現状で用意されているシステムとしては、「日本スポーツ仲裁機構」への仲裁の申立て、「スポーツ仲裁裁判所」への提訴という手段がある。しかし現状においては、これらの手段は全く活用されていない。その主たる要因は、陸連と選手とのパワーバランスの不均衡にある。
    代表選考で不公平な取扱いを受けた選手は、上記の制度を活用して異議を申し立てることもできる、提訴も可能である。しかしそうした行動を起こさないのは、行動することのメリットが見えておらず、逆に陸連に反発することのデメリットの方が遥かに大きい為、選手は泣き寝入りしているということである。
    この構図は、2016年3月に急展開を見せた女子中学生誘拐監禁事件と酷似している。この事件では多くの人が「チャンスがありながら何故逃げ出さなかったのか?」という疑問を抱いたと思うが、その実体は「誘拐犯による恐怖支配の為に逃げ出せなかった」ということであろう。
    陸連と選手の関係はこの誘拐犯と中学生の関係に酷似している。すなわち、陸連は選手に対して圧倒的に優位な関係にあり、両者のパワーバランスに大きな不均衡が生じているため、選手が陸連の意向に歯向かうことができないということである。こうした「陸連のパワハラ的支配」の状況に早く終止符を打たなければ、個性的で野性味あふれる生きのいい選手は育ってこないだろう。
    私が科学的に圧倒的に優位な地位にあることを背景に陸連に対して闘いを挑んでいる意味はここにある。つまり、前述の誘拐監禁事件で両親の救出活動が被害者の女子中学生に勇気を与えたように、陸連のやり口が科学的にも法治国家の構成員としても極めて稚拙であることを社会に見せつけることにより、陸連と選手のパワーバランスの均衡を図り、選手が権利救済の行動を起こす勇気を喚起しているのである。
 
(2)権利侵害の立証の困難さ
    権利侵害の救済手段としては「民事訴訟」も考えられる。ここに、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟(民法709条)では権利侵害、故意・過失、損害の発生、因果関係等の要件を原告が立証する必要があるが、これらの要件の中で特に立証が困難な要件が「権利侵害」である。つまり、マラソンのパフォーマンスの評価は困難な課題である為、選手は陸連の代表選考における過誤によって権利侵害が発生したことを立証することができないのである。
    このように制度としても法律上も権利侵害救済の手段は確かに存在するが、当事者の陸連に対する恐怖に加え、権利侵害を立証することの難しさから選手は行動することができないのが実情である。
 
(3)問題解決の鍵
    マラソン代表選考問題の解決の鍵は司法が握っている。
    まず異議申し立てや民事訴訟を提起する場合に不可欠な「権利侵害の立証」であるが、私は陸連による権利侵害をDNA鑑定レベルの精度で実証できるのは世界で唯一の存在である。こうした背景から、私は陸連を所管する内閣府に対して陸連の定款違反に対しての「不作為の確認」を求める訴えを提起した。ボールは司法に投げられた。
    現時点において問題解決の鍵を握っているのは、ボールを受け取った司法である。しかし、当該行政事件訴訟に対して東京地裁は、現実的に権利救済システムが機能していない状況であるにも拘わらず、「原告適格なし」として私の訴えを却下した。こうした「子供の使い」のような判断を続ける限り、選手の権利侵害の問題は永遠に解決されないのである。
 
(4)司法に問われる社会的責任
    地裁の型どおりの判断は致し方ない。しかし上級審では、当事者である選手が袋小路の中に取り残されているという現実を再認識して頂きたい。もし高裁、最高裁が一審の判断を支持するようであれば、司法も権利侵害の共犯者という誹りを免れないであろう。
    法は建設業者(立法府)のご都合によって出来上がった欠陥住宅のようなものである。したがって、その管理人(司法)がそれを完全無欠の住宅であるかの如く扱えば、住人(国民)の権利は守れないのである。
    現実的な問題として、原告適格を有する選手は陸連の不可解な判断に対して異議申し立て又は訴えを提起することができない状況にある。司法が私の提起した訴えに対して条文直訳の判決を下せば、選手の権利侵害は今後も永遠に続くことになる。しかし司法が法の趣旨に照らして私に原告適格を認めれば、数十年に亘って燻り続けた問題は一機に解決に向かう。
    不透明・不公平な選考によって負った選手の傷は長い時が経過しても癒えることはない【甲第87号証】。司法は、「プロの目」に象徴される陸連の方向性が日本の陸上界に与える致命的とも言える打撃に思いを巡らせ、自らが「不備な法体系の番人」の地位に甘んじるのではなく、「国家の未来を切り拓く重要な構成員」であるとの自覚のもとに、踏み込んだ判断をする必要がある。

5.おわりに
    本稿では、2016年5月2日(月)の毎日新聞夕刊に掲載された尾懸貢・陸連専務理事の「プロの目で見極め」と題する記事に対し、「プロの目」と「科学の目」という観点を中心として反論を行った。
    まず、日本陸上競技選手権2016の競技結果を例に、競争競技におけるパフォーマンスの評価に「科学の目」が欠かせないことを示した。次に、「プロの目」から「科学の目」への世界的潮流を無視する形で尾懸氏が主張する「プロの目を重視する論理」には構造的な問題があり、パフォーマンスの評価において妥当性が担保されないことを述べた。更に、陸連の理事は「プロ」ではなく「ボランティア」であることにも触れ、陸連の権利侵害の体質を変えるには司法の踏み込んだ対応が必要であることにも言及した。
    競争のない社会は衰退する。しかし、競争を是とする社会は「機会の平等と評価の平等」というインフラが整備されていて初めて成り立つ。尾懸氏が主張する「プロの目による選考」は公平性・透明性が命であるスポーツの世界において決して認容してはならない危険な思想である。
    偏見に満ちた管理社会の下では世界で闘う意志と実力を備えた独創的にして個性的な人材は育たない。陸連のこうした非科学的思想に基づく恐怖支配に対して司法を含めた社会が毅然とした対応をしなければ、我が国は陸上弱小国の道を突き進むことになるであろう。



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